トミーテックから宇部・小野田線に居た旧型国電が発売されました。
渋い選択です。非常に枯れたモデルです。
渋い選択です。非常に枯れたモデルです。
窓サッシがまっ黒けですが、
それも愛嬌でしょうし、小さすぎて気になりません。
雰囲気は十分に出ています。
それも愛嬌でしょうし、小さすぎて気になりません。
雰囲気は十分に出ています。
私が下関にいた当時は、既に旧国は淘汰されており、
本山支線にクモハ42が残っているだけでした。
本山支線にクモハ42が残っているだけでした。
1988年の10月、高校2年生の時にこの路線を訪れました。
夕方の列車に乗るため、
確か午後3時ごろに長府駅を出発、
小野田で小野田線に乗り換えます。
夕方の列車に乗るため、
確か午後3時ごろに長府駅を出発、
小野田で小野田線に乗り換えます。
私鉄の雰囲気が色濃く残る雀田で、チョコレート色のクモハ42が待っていました。
私以外に乗客はおらず、秋の夕暮れの中、クモハは長門本山に向けて走りました。
車内は木部のニスが香り、整然と並んだ座席も異様にタイトで、
時間が止まった空間でした。
車内は木部のニスが香り、整然と並んだ座席も異様にタイトで、
時間が止まった空間でした。
沿線は田んぼと住宅地ですが、
屋根の抜けた廃屋があったりして、夕暮れと相まって寂しい雰囲気が漂います。
さらに荒涼としてきたなと思ったら、終点の長門本山でした。
屋根の抜けた廃屋があったりして、夕暮れと相まって寂しい雰囲気が漂います。
さらに荒涼としてきたなと思ったら、終点の長門本山でした。
長門本山はホーム1面の何もない駅で、
宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」には、
駅横に雑貨屋があったと書かれていました。
しかし既に無くなっていたと思います。
駅の正面は道路を挟んで海が見え、
かつての炭鉱跡の荒れ地が広がっていました。
宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」には、
駅横に雑貨屋があったと書かれていました。
しかし既に無くなっていたと思います。
駅の正面は道路を挟んで海が見え、
かつての炭鉱跡の荒れ地が広がっていました。
クモハは20分ほど停車し、雀田への帰路につきました。
帰りの乗客も私一人でした。
この帰りに見た周防灘に沈む夕日が、26年経った今でも強烈に印象に残っています。
帰りの乗客も私一人でした。
この帰りに見た周防灘に沈む夕日が、26年経った今でも強烈に印象に残っています。
あの頃はバブル直前で、日本が絶頂に向かっていた時期でした。
そんな中、長門本山の寂寥感がなんとも言えず強烈で、
凄く印象に残った半日旅でした。
この後クモハは平成15年まで生き延びましたが、
再訪しておくべきだったなと思います。
そんな中、長門本山の寂寥感がなんとも言えず強烈で、
凄く印象に残った半日旅でした。
この後クモハは平成15年まで生き延びましたが、
再訪しておくべきだったなと思います。