レオの趣味生活 加古川ガレージ日誌

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姫路市御着の軍用鉄道 その2

前回は白濱鉄道の概要を紹介したが、
今回はもう少し内容をまとめたい。

 

●路線
区間は国鉄御着駅⇔大阪陸軍砲兵工廠白濱作業所間
地図上の距離は約4.0キロ。

 

1945年の航空写真より、
路線の位置を現在の地図に落とすと、このようになる。



継集落以南は航空写真がいまいち画像が不鮮明なため、
大体の位置しかわからない。
また、陸軍工場の位置も良く分からないのだが
古い航空写真では、現灘中学校付近に大きな建築物が見られるので
ここでないかと思われる。
工場跡に灘中学校が立てられたと思うが、
灘中HPでは経歴について一切述べられていない。
また、この陸軍工場は姫路の古写真集に載っていてもいいものと思うが、
図書館で探す限りは見つけられなかった。

 

当時の路線を航空写真で見ると、次の画像となる。
尚、継集落以南は前述の通り大きな縮尺の写真しかない。
また、3枚目の継集落付近は1961年のものである。

↑御着駅東から分岐、現工業団地内を南進

↑四郷町本郷集落東を南下

↑四郷町見野から継へ

↑継から白浜町陸軍工場まで

 

●経歴について
角川日本地名大辞典によると、
姫路市白浜町の項に、次の記載がある。
「戦時中、町内で大阪陸軍砲兵工廠の工場敷地及び倉庫などの建設が
始められ、国鉄の御着駅から貨物専用の引込線なども敷設されたが、
敗戦と同時に中止された。」とある。

 

よって、着工は戦時中で、
航空写真で現実に路盤が見られること、
掲示板に証言があること、などにより
とりあえず工事は完成し列車は走ったようである。
ただし、敗戦で使用中止されたため、
使用期間は極めて短かかったと思われる。
また、掲示板の証言によれば、
廃線後一定期間放置され、
古い貨車が御着駅付近の廃線に押し込められていた。

 

その後1961年の航空写真では見事に痕跡が消滅し、
大半が田畑に戻っているので、
おそらく強制的に買収(収容?)した土地を整理し、
元の持ち主に返還したと思われる。

 

●名称について
昭和23年衆議院会議録では、以下の通り「軍用白濱鉄道」と呼称されている。
正式名称なのかは不明。
以下会議録より

 

○井谷委員 本請願の要旨は、姫路市白濱地区は製塩業、製鉄業等の工業地帶であるが、その多量の貨物の輸送には附近に大藏省所管の元軍用白濱鉄道が敷設されているのに、六キロ以上も離れた御着、姫路、飾磨、曽根各駅に依存しており、輸送難に陷つている。ついては該鉄道を運輸省に移管して、貨物線としてすみやかに運輸開始をはかられたいというのであります。一つ一つ御説明を願つてから、次に進みたいて思います。
○藪谷政府委員 今、井谷さんから御説明のように、本線は元陸軍大阪造兵廠の專用線でありましたが、終戰後は大藏省所管となつております。本地区は終戰後残つた建物を利用して、工業、平和産業が相当開始されておりますので、これらの工場に発着する製品、原料等を輸送することができれば、産業開発上裨益するところが甚大であると思われますので、目下御希望の線に沿つて研究いたしております。

 

●仕様・規格・施設等
軌間については不明であるが、
さすがにナローということはないだろう。
国鉄と同じ1067mmだったのでないか。

 

使用された車両も当然不明。
古典SLが国鉄貨車を牽引していたのだろう。

 

主な施設として、
・八家川橋梁(名称推定)
距離:15m程度?
構造:さすがに鉄製デッキガーダー?
勝手な推測だが、川中央に橋脚がある
2スパン橋だったのでないか?

 

・踏切:8か所程度?

 

・御着駅からの分岐
特にヤード等無かった模様

 

・陸軍工場内の鉄道設備
全くもって不明。
機廻し線ぐらいはあったはず。
蒸気の給水施設等あったのでは?

 

こんなところだろうか。
あくまで私の勝手な推定なので、
正確な情報ではありません。

 

次回は廃線跡の痕跡探しに出かけます。